2009.05.01
【大阪・大正区】木津川飛行場跡
船町渡を渡り終えて木津川渡へ向う。木津川渡への目印に分かりやすいのは新木津川大橋を目指す事である。このようにぐるぐる巻きのスロープになっているので、遠くからも分かりやすい。
ぐるぐる巻きのふもとに、こんな石碑が立っているのを見つけた。飛行場?こんなところに?・・・横の碑文を読んでみる。
木津川飛行場跡
我が国最初期の本格的な民間飛行場である。昭和四年(1929)には東京-大阪-福岡を結ぶ定期旅客便の運航が開始され、近代大阪の玄関口として重要な役割をはたした。
ちょっと信じられない記述である。大正区に飛行場があったなんて聞いたこともない。
石碑の隣りに更に詳細な事情を記した案内板がある。
木津川飛行場
わが国の近代航空技術は大正七年(1918)ごろから急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正十一年からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。
木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正十二年ごろからです。昭和二年(1927)に着工し、昭和四年には未完成のまま東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。
しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であったため、昭和九年の八尾空港、十四年の伊丹空港完成により、その役割を終え、十四年には閉鎖されました。
こうやって見るに、結構立派そうな飛行場である。
■大阪飛行場(木津川)
http://www.warbirds.jp/airport/osaka/osaka.html
↑こちらのページに当時の空港への行き方が記されている。以下引用する。
同飛行場は大阪駅から約10㎞の距離にあり、市内電車で恩加島町終点で下車し、幅100mの運河を渡し船にのって渡り、徒歩5分で飛行場の事務所に着いた。なお旅客には大阪営業所(北区曾根崎町/第一曾根崎ビル1階)から運河の渡し場まで乗用車による送迎サービスがあった。
ここに出て来る「幅100mの運河を渡し船にのって渡り」というのは先に紹介した船町渡のことなのだろうか。だとすれば船町渡しは当時空港へ行くための交通手段でもあったわけだ。なかなかかっこいい話である。今の香港空港はジェットフォイルで行けるが、木津川飛行場は市電と渡船で行くのである・・・なかなか未来感覚に溢れているではないか(と思うのは私だけではあろうが・・・)。
丁度船町の南側に少し出っ張るように作られている。更に拡大してみる。
面積31万平方メートル。伊丹空港が311万平方メートルなのでちょうど10分の1の規模である。
大きな地図で見る
↑ご自分で拡大してご覧下さい。「中山製鋼所」と書かれているあたりが陸軍輸送部の倉庫があった場所にあたります。
他のサイトを幾つか参考にのぞいて見たところ、どうもここでは事故があったようである。海水と川水の混じる場所で、工場のそばであったため、霧が発生しやすく、煙突からの排煙なども視界の邪魔になったらしい。今から考えればそんなものは作る前からわかりきった話であるような気がするものの、どうも先行して木津川河口では水上機の発着が行われていたために、その延長上の話としてここに空港が作られたようだ。たしかに木津川河口は幅があって航空機を発着させるのにはいいかも知れない。
大阪人であり港区人である私からすると、大正区というのは大正橋と大正駅あたりで大阪と接しているだけで、あとは地下鉄も通っていないし、公共交通手段はバスだけで、43号線から南はある種の「半島」的な場所で、なんとも寂しい感じがする。大阪にあって大阪ではない、それは大正区と呼ぶに他ない独特の雰囲気を持っているところであり、僻地であり、辺境であり、大阪市に24区ある中で最もライダーマン的な区であるといえるような気がする場所である。
そういう大正区に、かつて飛行場があって、大いに賑わっていたというのはものすごい発見をしてしまったような気がする。昔、船町から飛行機にのって東京・福岡へ、さらには大連・上海へ飛んでいけたとは・・・。大正区に履歴書というものがあるならば、これは太字で大書されるべき経歴ではないか。船町の片隅にこっそり小さな石碑を建てたりするのではなく、JR大正駅の前に天を突くオベリスクのような巨大石碑を建てて知らせるべきであろう。
木津川飛行場については、改めて詳細を追跡し、こちらにて掲載する予定です。









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